ふぐの卵巣(子)糠漬粕漬製造本舗のあら与。北前船が運んだ伝統の味をご賞味ください。

ふぐの卵巣(子)糠漬け・粕漬けの製造販売本舗のあら与。 ふぐの卵巣(子)糠漬け・粕漬けの製造販売本舗のあら与。
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あら与の歴史と伝統
あら与を語るには、この美川(現:白山市美川 旧名称:本吉)の地と北前船を抜きにして語れません。北前船の寄港で栄えた港町・美川の歴史を「あら与」七代目荒木敏明が毎回こだわってお伝えします。ふぐのとれない美川でどうしてふぐの粕・ぬか漬が特産になったのか?いろいろお伝えしたいことがあります。
 

一年に一航海

北前船は、一年一航海。春大阪をたって北海道まで往復し、ニシン肥料などを満載して晩秋から初秋頃大阪に戻ってきた。日本海が荒れる冬の間は航海はできず、船は翌年春の航海までの間、大阪に係留した。船を川の中に置いたのは、木造の北前船にとって一番の大敵である船喰い虫から守るためだ。冬の間、淡水につけて自然に船喰い虫を死滅させる方法は、被害を最小限に防ぐ有効な手段で、さらに念を入れて船底を薫製することもあった。係留する船は帆柱を倒し、北海道産の根曲がり竹を縄で結んだ蛇腹状のもので周りをかこった。そして船員たちは船の番人に管理を託し、陸路で家族の待つ北陸へと急いだ。

函館と千島を結ぶ「千島交易」

函館と千島を結ぶ「千島交易」ルートを開いた高田屋嘉兵衛の銅像が北海道根室市琴平町の金刀比羅神社にある。昆布が沖縄など各地に大量に運ばれるようになったのは、この交易ルートが出来てからとされている。嘉兵衛以前の千島ルートの中心人物は商人・飛騨屋久兵衛。久兵衛は、松前藩の貸し倒れ金の代償として根室周辺の漁業権を与えられ、根室と千島の国後島で売買の請負を始めたが老中、田沼意次時代の大調査によって、久兵衛はロシアとの間で密貿易をしていた疑いがもたれた。日本から運ばれたのは、米、酒、鉄、鍋、などで、ロシアからはラッコなどの毛皮が持ち込まれた。

元吉(美川)の船主

本吉(美川港)での海運業を営んでたのは、竹内屋七兵衛・明翫屋冶兵衛・古酒屋四郎兵衛・清水屋甚左衛門・紺屋三郎兵衛・野屋傳三郎等がいる。これら本吉の船主達は、毎年加賀藩に多額の御用金を献上している。そのうち紺屋三郎兵衛は持ち船18隻を所有し、天保四年の大火のあと藤塚神社に寄進した御輿(ミコシ)は今日もおかえり祭りに使用され、その豪華さは今でも誇っている。現在美川町の北町通りの一角に「郎平辻」という記念碑がある。そのあたりには、かつて川原屋・湊屋・森島屋・加登屋など多くの船主が住み、その名が市郎兵衛から十郎兵衛までそろい、七〇〇石積以上の船が四六隻もあったので「郎平辻」とよんだのである。いわば、美川の昔の船主たちの住宅街をさす特異な区域である。

北前船時代の知恵

食通を喜ばせる珍味、「ふぐ粕漬・ぬか漬」かつて、北前船で栄えた石川県美川町の特産物だ。伝統的な味覚の一つだが、猛毒を持つふぐの卵巣が、ぬか漬けすることによって何故無毒化されてしまうのか、今もわかっていない。美川町の「あら与」では、ふぐは主に九州産だが、北陸でもゴマふぐが獲れる。ふぐの漬け物の中でも絶品が、卵巣のぬか漬けである。塩漬け一年、ぬか漬け一年の工程を経て、食品衛生法で人体無害とされる、1gあたり[10MU」以下の毒性になるというから不思議だ。説明出来ないだけに、手間のかかる製造過程は伝統をそのまま受け継ぐ。誰が加工法を考えたのか?どうして石川県だけ残っているのかわからない。ぬか漬けしたふぐの卵巣をさらに粕漬けにした三次加工品(ふぐ子粕漬)は辛みが抜けて、甘辛になり一層味わいを増す贅沢品だ。これぞ、北前船時代の知恵が育てた珍味中の珍味である。

北前船主「呉竹庵主人」

石川県美川町の「呉竹文庫」は北前船主として「熊源」の屋号を持つ熊田家分家の三代目、源太郎が1915年(大正4年)から蔵書を一般公開、1922年(大正11年)に私立図書館としたのが始まりである。現在の蔵書は計14000冊で、文学、政治、経済、、美術、生物、医学関係などがある。家業を継いで進学の夢を断念した源太郎は同文庫図書目録に「知識欲を制することができず諸書を買い求め乱読した、それが蔵書の起因」と、当時の心境を記す。17歳で父を失った源太郎は北前船時代を継承して運送や倉庫業を営んだほか、最盛期には水田など150を所有。1890年(明治23年)には石川県内の長者番付けで一位となった。また、自らは「呉竹庵主人」を名乗って、茶や能、和歌などをたしなむ文人でもあった。

北前船主が築いた北陸の企業基盤

大正時代の北海道の石川県・富山県人名録には「北海道の十分の一を占める人口の多さと富の膨大さは、我が三州人の右に出るもの無し」と書かれている。北前船主たちは、明治以降築き上げた財を銀行、保険、肥料、運輸、紡績など様々な分野に投資した。その中でも現在大会社に成長したうちの一つに、北前船主である、右近家、広海家、馬場家、などが現在の日本火災海上保険の前身のひとつ、日本海上保険を設立した。これは日本海での航海の怖さを身にしみて知っていたからである。また、北陸においても北國銀行、北陸銀行も多くの北前船主たちが創業にかかわっていた。我が美川町においても永井家の永井銀行など、金融会社が盛んに行われていたようだ。このように北陸の初期の企業基盤は北前船主が整えたと言っても過言ではない。

北前船の交易品

『北前船の最大の交易品が、北海道で大量に取れたニシンで、春先にはニシン漁でにぎわったようです。大阪の綿花などの作物栽培が西日本で盛んになったのは、北前船が大量にニシンを運び、肥料として安く供給できたからだったとの話があります。また北前船がこの石川県の美川町を含む日本海沿岸にもたらした大きな食文化の一つに昆布があります。昆布は北海道から大量に持ち込まれましたが、この昆布の利益が明治維新で大きな役割を果たすことになっていきます。
北前船は、江戸時代から明治時代にかけて、隆盛を極めた商業船です。大阪を出向し、瀬戸内、山陰、北陸を経由して、北海道に荷物を運ぶ当時の重要な流通手段であった。この船は、商品を運ぶだけではなく、寄港地で仕入れた商品を売り、さらに商品を仕入れて、別の寄港地で売るという現代の商社的な経営が特色でした。北海道からは、ニシンのしめかすや、海産物、西日本・北陸からは、米・わら、酒などを積み出した。航海は、春に出航し、秋までに戻ってくるという長いもので、年一往復の就航であった。
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